『感想』荒野へ

エッセイ・ドキュメンタリー

原 題 Into the Wild
著 者
 ジョン・クラカワー、訳者 佐宗鈴夫
出版社 集英社文庫
出版日 2007年3月1日
334頁

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内容

厳寒のアラスカに消えたひとつの命。
アメリカの地方新聞が報じたある青年の死は、やがて全米に波紋を呼んだ。恵まれた境遇で育った彼は、なぜアラスカの荒野でひとり死んでいったのか。衝撃の全米ベストセラー。
(集英社より引用)

 

感想

まず最初に言いたいのは、これはアラスカで死んだクリス・マッカンドレスの足跡と周囲の反応のみを追うドキュメンタリー、ではないということ。
確かにクリスの生まれた時から死ぬまでの記録や家族の概要はほぼ全て集められてまとめられているのですが、ただただ客観的に単調な感じで書かれているわけではないのですね。

著者が素晴らしいのか訳者が素晴らしいのか、文章自体は読みやすくて良いものだと思います。
この本の特徴的な構成としては各章の初めに荒野を目指した人々の文章が引用されているということです。
なぜこんな構成にしたのかということを考えてみるとまず表面的な理由としてはこれらの本がクリスに影響を与えたから、でしょうかね。
そして本当の理由としてはおそらくこの本の主題である「荒野を目指した人々を描く」というのがあったのではなかろうか?

 

アメリカ合衆国というのは我らが日本国に比べたら歴史が浅く、粗野と自由が尊重される「大陸的」な印象が持たれているかもしれません。(少なくとも私には)
だから自由な旅路を目指し最終的に餓死してしまったクリスには同情的・羨望的な意見が多数寄せられるのかと思いきや、案外否定派も多かったようですね。
クリスをアラスカのスタンピードトレイルに連れて行ったジム・ガーリエンも心配して「そんな小さな銃じゃあグリズリーを倒せないぞ」とか色々脅して彼の計画を止めようとしていたり。
「土地のものを採集して生きていくだあ?おお、やったれやったれ!」と発奮させる人が多いのかと思いきや、そこらへんの反応は日本の人々とあまり変わりませんねw
主な原因↓

 

クリス・マッカンドレス自体は体力・知能・技術などが客観的に見ても優れていた、当時24歳の好青年。
自己を高めるためだけに生きて他人なんて知ったこっちゃないというわけではなく、彼と接した人々の多くが彼を好意的に見ていたりホームレスたちになけなしの金で施しを与えたりするなど、むしろ他人が困惑するくらい道徳的な人間だったようです。
しかし彼はルールのためのルールのようなものには反抗するようで、引用させていただくと、

マッカンドレスはもっと高次の法律に従ったのであり、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの現代の支持者として「公民の不服従の義務について」のエッセイをぜったいに正しいと思っていたから、州法を軽んじるのは道徳的な義務と見なしていたのである。

 

この本を読む限りクリスは全てにおいて「真剣」であった、というのは全く否定できないものだと考えられます。
多くの人は物事を表面的に見てあまり考えないようにしていますが、クリスは「本当にそうなのか?」と疑問を持って考え絶対に正しい答えが得られないと気が済まないという、少々面倒で疲れそうな性格を持っていたようです。
恵まれた環境で生まれ育ったからこそ本当にそれを疑いようなく享受していいものなのか?というような疑問を持って、極力金や物を持たずにアメリカ中を旅し、そこで生きるのは困難とされるアラスカの奥地で生きようとして、一言で表すならリアルを求めたからこのようなことをしたのだと思われます。

頑固で頭から押さえつけずにいられない父ウォルトとは、独立心の強いクリスは馬が合わず、反抗をしています。
かと言って父への反抗だけで長期間の旅をしていたのではないだろうと推測します。
もし反抗が理由なら、彼の日記には父への恨みつらみなどが多く書かれていたでしょう。
しかし実際書かれていたのは、日々の生活やそこで自分が感じたこと。

この本にはクリスだけではなく、他の荒野を目指した人々も簡単に紹介されています。
アラスカで原始的な生活が出来るか10年以上実験したロッセリーニ、偏執的に一人でアラスカ山脈を目指して死んだ登山家のウォーターマン、同じく冬季のアラスカの山で死んだマッカン、そして荒野に魅せられた20歳のエヴェレット・ルース
もしかしたら似通っているところもあるだろうとして、著者ジョン・クラカワー自身のデヴィルズ・サム山への登山記録。
もっと広い視点を持つならば、海の向こうに何があるかという保証など一切なく荒海に乗り出し、アイスランドやグリーンランドにたどり着いた修道士たちなど
彼らの生き様や荒野と自由に魅せられた人々が書き残した様々な書物を紐解いていくと、つまるところそういう人たちというのはどの時代、どの場所にも確かにいたということ。
いつの時代も「無謀で愚かな自殺志願者」として見られていただろうけど、その衝動や血というのは全ての人間の中に潜んでいるものなのではないでしょうか?
今やるのと比べたら遥かに『準備不足』だった、アポロ18号にしろ、マゼランにしろ、日本で言えば北海道や満州やハワイやブラジルに行った人たちなど。

 

クリスは自分の命を(多少の)危険に晒すことを拒んでいませんでしたが、しかし積極的に死のうという気は無かったのも確かでしょう。
リアルを知るという道の半ばで死ぬのは出来れば避けたいけど、全くの予定外というわけでもなく。
彼自身は死の可能性を受け入れていたからこそ、最期の写真は骸骨のように痩せていても穏やかな表情をしていたのでしょうね。

しかし、残された人々の悲しみはやはり考慮に値すると思う
81歳の老人ロナルド・フランツはクリスの死を12月26日に知って、彼を救わなかった神を捨て、無神論者になった。荒れ地に入り、酒を飲んで死のうとしたが、死ねなかった。
ラストシーン、クリスの母ビリーの哀しみの言葉で終わる。

「クリスが亡くなったのは事実ですし、わたしはそのことで毎日毎日ひどくつらい思いを味わっています。
ほんとうに耐えがたいことです。
いくらかましな日もときにはありますけど、これからは一生、毎日がつらいでしょうね」

ここらへんだけはクリスへの批判に反論できない…
読んでて私も悲しくなってしまった…

 


 

安定した生活での最たる例としては「蛇口を捻ったら飲み水が出てくる」というのがあると思いますが、しかしその裏でどれだけの労力と金がかけられているかを理解しながら水を使っている人は少ないと思います。
実感や理解とはおそらくそういうもので、知識として数字として知ってはいても、それを魂の奥底から感じるのはまた別次元のことでしょう。
更に例を挙げるなら般若心経では「色即是空、空即是色」という言葉があり、その意味を知ることと、それを『実感』して『実践』するというのもまた全くの別次元です。
クリスなど荒野を目指した人々は、そういう魂の奥底から来る『言語道断(言葉だけでは表せないという意味で)な何か』を求めたり感じたりしていたのではないでしょうか。

自分の今の生活も現代社会を否定しているのではなく、むしろ現代社会のレールに沿った生き方の素晴らしさを実感出来るかもしれないという目的も無きにしも非ずです。
そのような人生はただの回り道に見えるけれど、実感の無い生活と実感のある生活では、やはり後者こそが本物であると思うのです。

 

こういう本でよく引用されるソローの森の生活だけど、なんだか無駄な比喩や引用が多すぎて読みづらすぎるのであきらめている最中だったりする。

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