場所や状況に応じて人は変わる。不変の心は無い

山暮らし始末記

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故郷に帰ってみたら

故郷に帰った。

居心地の良い場所である。
暖かい部屋と風呂、頼まずとも出てくる食事、話し相手がいること。
しかし快適なのに、ぼんやりとした感覚が感動を妨げる。

刺すような刺激があり、生死に関わる選択を行い、自分以外に頼れるものがいないあの山暮らし。
自分がやらないと生きられないから、動かざるを得ない。
だからハングリー精神や活力が湧く。
でも、一人でいすぎると人生の意味を見失う。

この状況ならエネルギーを持て余した青年は飛び出してしまうのは分かる。
何かに挑戦したくなるのも分かる。
男には人生で一度くらい、漫然とした社会から抜け出して生の実感を欲しくなる時期はある。
その形態は自分のようなゼロからの開拓生活だったりもすれば、バックパッカーだったり、ヒッピーだったり、外国の開拓移民だったりするかもしれない。
このような思いが人類をアフリカから抜け出させ、南米の南端まで拡散させた…と思ったらロマンチックである。

しかしここから離れれば望郷の念に苛まれる。
遠くから見ないと価値を感じられないなら、ここにいながら遠くから見られるように努力したい。
今はその一環として、郷土史と民俗学の勉強をしている。
初めてこの地にやってきた観光客のような目線で、この地とここに生きる自分や人びとを見ていきたい。

 

青年は、荒野に魅せられた。

火を使って調理することも、
一人の力だけで何年でも住める山小屋を作って暮らせることも、
多少の不衛生でも病気にならず意外に健康に暮らせることも、
山の物を売って金に変えられることも、
出稼ぎの気楽さと出立の日の切なさと達成感も、
一人だけでは憧れの生活と仕事には飽きてしまうことも、
この生活を始める前は、何も知らなかった。

僕は腕一本、裸一貫で始めるのが好きだったのだ。
出稼ぎしかり、山の開拓しかり、林業しかり、歩き遍路しかり。
どんなことでも最初は面白い。
自分の力の変化や状況を実感しやすい。
しかし続けているとなんてことはない、どんな仕事も普通の仕事だし、どんな生活も普通の暮らしだ。
これさえやればずっと幸福が続くなんてことは無いし、現世にユートピアなんてない。

今は山を降りたことに後悔は全く無いが、また5年後や10年後とかに後悔したり懐かしがったりする時も来るんじゃないのかと思う。

記録しておこう。
このブログは、僕の人生のマイルストーンになることだろう。
20代を思う存分駆け抜けた証だ。

 

新しい生き方を望む人へ

「好きを仕事に」はいつも絶対正しい、わけじゃない

好きなことを仕事にすれば、金の心配をせずに、やりたくないことをやらずに、情熱を持って生き続けることが出来る、
わけではない。
普通の仕事のように、金のことはよく考えるし、やりたくないことだってやる。
普通の仕事のように、楽しい時もあれば、嫌になる時もある。

だから、辛い時は情熱で乗り越える、情熱の存在を前提にしていると、バーンアウトした時に耐えられない。
人間はいつなんどきでもやる気が湧いてくるわけではない。
本気でやりたいなら継続性が大事であり、やる気が無くなっても続けていかざるを得ないシステムが必要だと思う。
夢の実現可能性は、継続性に比べれば些末な問題。

少し心理学の統計を調べてみると、情熱や社会貢献のために仕事をしている人より、自分の能力に合うとか賃金の良さを重視する人の方が長く続いてスキルアップもしやすい傾向にあるようだ。
ごくまれに情熱や社会貢献だけでモチベーションを一人で維持できる人がいるが、それが『天才』というもので、誰しも維持できるわけではない。

孤独は継続性を少なくする。
人間嫌いを自称しても、やはり家族やチームで生活したり仕事したりしていくべきだと思う。
情熱を持って仕事をしている時は他人が邪魔に感じる時があるかもしれない。
しかし一人だと情熱が無くなった時に繋ぎとめる存在が無くなる。
そうすると継続も出来ないから、そのままフェードアウトしていってしまう。
一人だけで何かをやり続けたいなら、その問題をどうやって解決するかを考えておかないといけない。

 


好奇心はローコストに満たそう

しかし強烈な憧れは止められるものではない。
どうせ続かないからって何もやらなければ、本当に何も出来ない。
やる前とやった後、自分と他人の実感は全く違う。
この記事のこんな言葉でそれが伝わるわけが無いし、この言葉がいつも正しいわけでも無い。

でもどうせなら、最初はやっぱりローコストで始めるのが良い。
取り返しは簡単につくから。

旅行好きの人なら、様々な場所に「住んでみたい」と思うこともあるだろう。
しかしその気持ちだけで住んでみると、初期の好奇心が無くなるにつれてそこに住み続ける理由は無くなってくる。
もっと経済的で省力的な方法へと気が変わっていく。

そのような居住の好奇心を満たしたいだけなら、体験型の滞在が合理的だし、逆に需要のあるビジネスにもなると思う。
他には、リゾートバイトや期間工などの住み込み仕事も良いだろう。
移住の前にその地域が好きなのかを、稼ぎながら感じられる。

 

持て余すほどの自由は、選ばれし者にしか耐えられない

定年退職者・セミリタイア者が増えた昨今、自由過ぎる生活の体験記はネット上にも増えてきた。
自分もたまに読むがそこで分かったこと、それは

「無職や自由人を続けるには才能が必要」

サラリーマンは不自由であり、休日を待ち望む人が多数だと思う。
だから悠々自適な農的暮らしやセミリタイアは自由を謳歌していて魅力的に写るだろう。

しかしだからと言って多すぎる自由は、時によっては人生への充実感を喪失させる場合もある。
何十年も遊んでも「幸せだ」と言う稀有な人もいるが、少なくとも自分には真似出来ない。
適度な抑圧は必要であり、それが無ければ生活にメリハリが無くなる。
仕事は仕事、休みは休み。
そう決めておかないと、休んでいる途中でも焦燥感に襲われてしまう。
仕事中なのか休憩中なのか分からない時間はどっちつかずになって、どちらのパフォーマンスも下がる。

締め切り間近の課題があっても悠々とゲームとか出来る人は、自由な生活は向いている。
計画性の無い人間は無職になると金に困ることも多いだろうが、しかし精神的には向いている。

自分は不安を感じやすい方だから、課題があればさっさと片付けたいタイプだ。
こういう人間は自由人や自営業に向いてない。
金のやり繰りの計画は一応立てられるから金の心配はあまりしなくて良いが、精神的に向いてない。

 

あなたはこの世に生まれ落ちただけで何者かになっている

民俗学を少し勉強してから思ったことがある。

その場所、その時代、その家、その家族、その地の人々と共に暮らした過去を持つだけで、既に『何者』かになっている。

活気があふれる年頃はとかく『何者』かになることを望む。
自分の天職が存在しそれを実感できることを信じて疑わず、定義された自分を名刺のように他人へ見せつけたい。
生身の自分に価値は無いと思い、企業の社名で自分のアイデンティティを保ったりする。

また、成したことや成そうとしたことも自分を表すものだと重視するだろう。
しかしそれらも、価値のある自分を表現するとは限らないし、そもそも絶対的な価値は無い。
そして、一人一人が持つなんてことはない記憶だって、同じように自分を表すものの一つだ。
故郷で生きたことも、山で生きてみたことも全て、唯一の自分を表すものだ。

だからまあなんだ、焦って何者かになろうと挑戦のための挑戦はしなくて良い、と個人的には思う。
今やりたいことをやっていたら、他人から「それは挑戦というものだ」と言われるような結果論で良い。

 

新たな生活に向けて

理想の田舎暮らしに向けて勉強と記録の主目的に始まったこのブログも、そろそろ終わりです。

行ったことや調べたことを自分なりにまとめたことで頭の整理もしやすかったです。
もしやってなかったら、この生活は露のようにこの頭からもすぐに消え去ってしまうことかもしれません。

 

10年近くの積年の想いは果たされました。
また一歩、悔いのない死へ近付けました。

これからはまた新たな夢や目標に向かっていこうかと思います。
30代はどんな人生になるだろうか、楽しみだ。

 

 

それでは、また逢う日まで。

 

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