原風景を辿る旅

2020年1月29日山暮らし始末記

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自由と孤独

自由こそが、人間の絶対的な幸福であると信じて疑わなかった。

この山では街の中では出来ない多種多様なことを、自由にやっていい。
足りない物があれば自分で整えられる。
山小屋で住むのが面倒になったら、麓の古民家などを借りたりすれば良い。

仕事だって自由にしていい。
自営業として色んなものを生産して販売したりすれば良い。
休みたいなら休めばいい。無理に金を稼がずとも、生活費が少ないから困窮はしない。

 

望んでいた自由は手に入れた。
…しかし、ここはマイホームにはならなかった。

新生活の新鮮さは時が経つにつれて薄まるものだが、その代わりに落ち着きや居心地の良さを感じるようになるはずだ。
そう思わないのは、まだその土地に蓄積した思い出が足りないんだと。
しかし4年目になっても、感じられる気配がなかった。

 


民俗学と原風景

昔ながらの知識を生活に取り入れて、面白くてローコストなライフスタイルを送ろうと思っていた。
だから、出稼ぎ中にはよく図書館で民俗学の本を読んで勉強していた。

技術だけではない。
その土地で生きる人びとの生活と風景、そこに生きる理由などの多くの記載があった。
その歴史は自分のものじゃない。
それでもノスタルジアを感じずにはいられなかった。
以来、民俗学が好きになった。

民俗学では他者の思い出を辿っていく。
必然、自分の過去にも着目するのだろう。
山口県周防大島には、民俗学者の宮本常一が(もしくはその指示で)収蔵したものが膨大にあった。

様々な土地に人がいて、歴史があり、そこで生きる人にとってかけがえのない思い出や原風景がある。
人びとはそれらに囲まれて、穏やかに暮らしている。

 

そんな時、故郷に帰って1週間ほど実家で過ごした。
そして山小屋に帰ってきたとき、

「もしかして、自分の魂や原風景は故郷にあるんじゃないか?」

そう思い始めると、この山暮らしを続けていくことへの孤独感と寂しさが一気に強まった。
この山暮らしには自由があるが、孤独である。
故郷は不自由である。
昔の自分は自由を選んだ。
しかし今の自分は、望んでいた自由に価値を感じていないし、謳歌していない。

孤独なんて若い頃はほとんど感じてなかったし苦しみでも無かった。
そんなことより他人と一緒にいるストレスのほうが大きかった。
故郷の風景は好きだが、もっと良い景色が全国各地にあると思っていた。

 

…僕も年を取った。
青年期が終わり、壮年期へ入る。
無限の可能性を強くは信じられなくなり、人生の終わりを見据え始める時機だ。
このまま、年に1回くらいしか家族に会わず別れの時を迎えるのかと、故郷の実家が朽ちていくのかと思い始めると、寂しくなった。

 

魂が居つく場所はどこだ

この山は岡山県の久米郡美咲町にある。
谷には田園風景が広がり、なだらかな吉備高原が延々と続く田舎町だ。
中国山地の南側だから雪はほとんど積もらず、晴天は比較的多い。

町内にはあまり無いが隣町の津山市には大型店舗が立ち並び、買い物には困らない。
仕事だって津山市まで行くと多い。
静かな田舎暮らしと暮らしやすさを両立出来る、移住するには良い町である。
空き家バンクには安い物件も多く、移住者支援も多い。

自分の山も、接する舗装道は多少狭くとも買い物などの日常生活に困ることはほとんどない。
バス停までは歩いて15分くらいかかるが、年に数回使うくらいなら別に良い。

改めて考えると、あの当時にこの場所を田舎暮らしのための移住地として選んだのは、かなり正解に近い。
この町は悪くないと思っているのは確かで、暮らし続けていくことも(物理的に)可能だ。

ただ惜しむらくは、ここが自分の故郷じゃなかった、ということだけ。
故郷を差し置いてでもここで一生過ごせるかというと、違ってくるんだ。
故郷には故郷にしか無い、魂の居場所としての情緒がある。
涙が出てきそうになる、原風景がある。

「土地に根ざして生きていきたい」
と思っていた。
しかしその土地ってのは、『土』という意味じゃなかった。
その場所とか、故郷とかに属し、その地域の人になっていくことだったのかもしれない。

 

仕事を終えた夕暮れ、なだらな高原の山並みは美しい。

おそらくこれが、この地域に生きる人びとの原風景なのだと思う。
実際、良い景色だ。
登山やツーリングしている時に思っていた憧れが、ここに確かにある。
でも自分の本当の原風景は…

 

 

山暮らしとか出稼ぎとか旅行とか、色々やった。
もしかしたらこの数年間は、自分の原風景を探し求めた旅だったのかもしれない。

海で生まれ育ったから、山の生活や仕事に好奇心を持ったのだろう。
でもやっぱり人生を思い返すと、「ここで死にたい」と思えるのは海だった。
遊び場所と死に場所は違う。

これからも山で遊ぶことは多いだろう。
でも、遊びと暮らしはやはり違う。
ライフスタイルの全てを変えてでも山で遊びたい、というほどの熱意はもう無い。

憧れは、近づいたりして自分の立ち位置が変われば、蜃気楼のように消えてしまう時がある。
あくまでも客観的に望めるくらいの距離感が、一番ロマンを感じるのかなあとも思う。

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