『感想』里山・里海暮らし図鑑

実用書・一般書

著者 養父志乃夫
出版社 柏書房
出版日 2012年5月1日
384頁

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内容

東日本大震災により原子力エネルギーの安全神話が崩壊し、身の丈にあった暮らしの術が見直されるべき時期が到来した……激変する社会において、燃料や食料、水といった生活必需品をどうやって確保したらよいのか?持続可能な生活を取り戻し、次代につないでいくために、先人に学ぶべき古くて新しい知恵を探る

【本書の特長】
●失われた昭和30年代までの自然と人の暮らしを紙上に再現。食料、燃料、生活資材の生産方法が身につけられる。
●日本人が長年をかけて自然とともにつくりあげてきた生活の知恵が満載。日本および東アジアの暮らしの指南書として活用できる。
●次世代が生きる力を養う上で最低限知っておくべき里地・里山・里海の本質が理解でき、体験学習や地域学習の教材に最適。
●北海道から南西諸島におよぶフィールドワークで収集した貴重な資料写真を含むビジュアル資料1200点を収録。
●知りたい事柄に手軽にアクセスできる索引を完備

目次

はじめに
第一章 土地利用に活かすルールと作法
第二章 エネルギーの自給と循環
第三章 食糧の自給と循環
第四章 半栽培・半飼育して頂く副食材や薬草
第五章 暮らしの素材と再生産
第六章 固い絆で成り立つ暮らしと次代の育成
第七章 豊かな自然環境と生物多様性
第八章 次代に受け渡す里山、里海、暮らしの教え
用語解説
協力者・協力機関
索引

柏書房より引用)

感想

図書館で読みました。

里山と里海、戦後すぐ(昭和30年代)くらいの田舎の生活が、多くの写真とデータ付きで紹介されています。
タイトルどおり『図鑑』としても読めるのですが、付随の文章もかなり参考になるものであり目が離せません。
それぞれのデータや写真、当時の体験談に関してはそれぞれのページに参考文献が明示されていますので、原本を読むことで更に興味深いものについての調査が出来ます。
というわけで、この本は農山漁村の生活について記した、最高級のまとめ本であると私は考えます。

以下、自分が興味深いところを抜き出してみました。
自分用の雑多なメモです。

 

畦に生える野草やサツマイモの葉柄で、野菜の補給は事足りていた。
有用な野草のみを残しその他の草木は刈り取って家畜の餌・肥料などにするという、刈り残し半裁倍を行っていた。
漁村の場合、海で取れるもの以外ではムギ、イモ、大根を作って自給自足をしていた。
(おそらくビタミン・ミネラル補給のための野菜の積極的な栽培はほとんど行っていなかった。栽培するとしたら、野草が少ない冬に備えるための大根くらいで、他はエネルギー源と換金作物)

裏山の木々を伐採し、草刈り山を作ってその場所で家畜を放牧したり、草を集めて肥料とした。
日当たりの良い草原にはワラビ、ゼンマイ、ウド、たらの芽などが生えてくるので、収穫した。
里から少し遠い場所は赤松林とし、枝葉などの焚き付けを確保しながら、用材の生産や松茸の生産も行っていた。
山林内では狩猟を行い、毛皮を防寒具や敷物に加工。
肉は集落内で分け合って自家用に。
蛇や蜂もよく食べた。

芋類は斜面に掘った芋穴で保存、もしくは干し芋に。
渋柿の皮は刻んで野菜の漬け物の甘み付けに。
他の野菜や魚は塩漬け、酢漬け、乾燥、燻蒸して保存。
ヨモギなど薬草も乾燥して保存。

生活排水は小さなため池にため、鯉、くわい、はすを育てた。
水田でも鯉やフナを養殖し、水を抜くときに収穫。
湖やため池の藻類も田畑の肥料にしていたので、水は綺麗だった。
風呂では洗浄力のある米糠の袋で全身を洗い、洗髪は灰の上水、芋の絞り汁を使ったり。
洗い湯は水田に流したり、外便所に入れて下肥の発酵と希釈を行った。

川や池での漁も多くなされていた。
農薬の普及、護岸のコンクリート張りが行われるまで、用水路や里川は副食を育む半ば養殖地であった。
海での漁獲は浜に様々な生業を生み出した。
漁具の生産、修理、魚介の仕分け、加工、販売等、このことが高齢者や身体障害者、移住者など、年齢体力経験の異なる人々の雇用を生み出した。

家の軒下で養蜂したり、害虫を食べてくれるツバメのために巣台を作ってやったりした。
杉皮葺の屋根は、樹齢約70年程度の杉皮を約1mに剥ぎ取り、四枚ほど重ねたものを並べ、その上に芯材を置き、釘を一切使わず、石の重みで押さえた。

米は自家用食料、換金用作物の両方の価値があった。
稲わらの藁は牛馬の餌、俵、草履、ふご、土壁の芯、むしろに加工し、自家用もしくは販売用とした。
油桐から取れる油や柿渋を、防水材や塗料として販売。
しゅろやい草、みつまたやこうぞも栽培して換金した。

昭和30年頃、勤労者平均月収三万円の時にはマダケ30kgで300円。
土壁の材料になるので貴重な収入源だった。
多くの桑の葉を必要とする養蚕も山村では盛んで、薪炭や竹材に並ぶ重要な収入源だった。
薪炭材出荷量と松茸出荷量は比例。
1950年代、黒炭は薪の4倍ほどの価格。
勤労世帯一年の収入を、一冬で取れる薪だけで得られていた。

 

農林漁村の共同体についての記述もあり。
多くの家が自給自足的に暮らしていたので、共同体が無くては暮らしが成り立たず、必要なものだった。
共同体内の集団作業や会議に欠席したり規則違反を繰り返したりすると、絶交となる。(という規則は決めているものの、実際に施行されることは普通はなかったらしい)

田植えや土木工事など多くの人員が必要となるとき、会議の場でみんなが納得するその年の日当額を決め、その金で集落内の人を雇った。(年齢は関係ない)
このシステムにより、子供が多く所有している田畑の少ない貧農に対しての富の再分配が行われた。
日当は男を1とすると女は0.8だったが、母子家庭や障害者のいる家では女も1として、皆で暮らしを支えた。
重要な技術職には特別多く日当を与え、職人を育てようとした。
貴重な道具や牛を出した人には追加で金を与えた。
会費は「均等戸建て割り」と所有田畑・山林面積等に応じた「所有割り」があり、現代の税金に近いものがあった。
つまるところ、共同体は単なる共同作業と相互監視だけの役目ではなく、所得の再分配にも役立っていた。

長野県上野村の事例では、経済的に困窮する人は山上がりをすればよいと言われていた。
山上がりとは、まず森に小屋を作り、自然のものを採取するだけで一年暮らす。
その間、働けるものは出稼ぎし、借金を返す。
経済的に少し余裕が出来てきたら、山に上がって暮らす家族に以前の里の暮らしを回復させる。
山上がりを宣言したものは誰の山に入っても良いし、必要な木を伐っても良いというルールがあった。

稲刈りが終わると、学校を卒業した男女は田植えまでの期間(11月~3月頃まで)、出稼ぎに出た。
集落内の祭、会議、作業は男女の出会いの場でもあった。

 

 

…とまあ、ものすごいボリュームの本であり、図書館内でメモを取ることも大変なくらいでしたw
自分にとって目から鱗だったのは、共同体内の所得の再分配でしょうか。
今の自治会なんかより、昔のほうが合理的かつ洗練されていたんじゃねえのかと思うくらい。

ちなみに30代で婿養子として別の地域に行った男の人の体験談があるのですがそれには、「集落の作業では年下に指図されるのが辛かった」とありました。
もちろんこれだけで全てを判断することは出来ませんが、昔と言えど、年齢で序列が決まるのではなく、年功(≒勤続年数)で序列が決まっていたところがあった。
そして、年功によって指図するものされるものという区別はあったものの、賃金は同一であった。
これはなかなか驚くべきところなのではないでしょうか。
現代の多くの会社にある、年功によって序列も賃金も決まるのと対照的です。
まあ昔のほうが肉体労働が多かったから、下っ端はは肉体的労力を提供し、体が衰えてきたベテランは知恵や技術を提供することで、上手く労力バランスを取っていたのかもしれません。

 

里山暮らしを行うにあたっては最高の資料となるので手元に置いておきたいこの本ですが、税抜き9500円。

 

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